期間:3ヶ月
場所:證大寺 江戸川本坊
<内容>
1.理念研修
2.儀式作法(声明作法・荘厳作法・装束作法)
3.通夜・葬儀・年忌法要・定例合同法要の実践研修
4.仏教学・真宗学の習得、法話研修
5.聞法学習会運営
6.教化伝道に伴う事務作業(PC作業、資料収集等)
期間:3ヶ月
場所:證大寺 江戸川本坊
<内容>
1.理念研修
2.儀式作法(声明作法・荘厳作法・装束作法)
3.通夜・葬儀・年忌法要・定例合同法要の実践研修
4.仏教学・真宗学の習得、法話研修
5.聞法学習会運営
6.教化伝道に伴う事務作業(PC作業、資料収集等)


私は大谷専修学院で教師資格を取得後、縁あって證大寺の僧侶として働くことになりました。證大寺の研修は実践的な内容はもちろん、勉強できる機会が多いことに驚いています。普通、お寺に入職すると僧侶としての仕事は一般的には葬儀、法要が主となりますが、證大寺では様々な研修や法話会が常に行われているので、僧侶として、人間としての価値観を高め、成長させてくれるのです。お寺自体が僧侶の質を上げる取り組みをしていることに感謝しつつ、日々精進しています。
<川邊僧侶が参加した法話会(一部)>
歎異抄特別講座:三明先生による講座、この人生を生き生きと生きる姿を歎異抄にたずねていく
歎異抄公開講座:三明先生による講座、歎異抄にはじめから触れていく
正信偈講座:井上住職による講座、浄土真宗のお寺で読まれている正信偈に学ぶ
仏教の死生観:井上住職による講座、老病死を見て世の非常を悟る
はじめての仏教:證大寺の僧侶による講座、仏教の説く教えに日頃の疑問などを聞いていく
教行信証:三明先生による講座、親鸞聖人が亡くなるまで書き続けられた教行信証をはじめから学ぶ
観経疏:斎藤先生による講座、善導大師の著作「観経四帖疏」を読みながら漢文に親しむ
維摩経:井上住職による講座、大乗仏教の入門書である「維摩経」をストーリー仕立てで学んでいく
量深学場:三明先生による講座、前半は歎異抄について、後半は教行信証について学ぶ
江戸川浄縁の集い:證大寺本坊にて三明先生による正信偈に人生の意義を訪ねていく
●金沢研修
●妙高研修
●本山奉仕団
●定例法話会
→勤務内で週1回、法話会に参加できます
●一般社団法人仏教人生大学で年間150講座以上あり
→講座カレンダーはこちら
→仏教人生大学のYouTubeはこちら
<2024年11月から半年間の法座に使用しているテキストはこちら>
| ●歎異抄特別講座 ●歎異抄公開講座 ●教行信証 |
●江戸川浄縁の集い ●船橋浄縁の集い |
●森林公園浄縁の集い ●量深学場 |
1954年、青森県弘前市生まれ。早稲田大学卒業後、大谷大学大学院 文学研究科 真宗学専攻、博士後期課程の単位を取得。その後、同大学助教授、愛知新城大谷大学教授・社会福祉学部長、九州大谷短期大学学長を歴任し、現在は九州大谷短期大学名誉学長を務める。
また、明教寺前住職であり、浄土真宗公開を念じて学びの場として学仏聞法道場量深学場を主宰している。著書は、講義のテキスト・信心の書『歎異抄』講座の他、『歎異抄講義』『阿弥陀経講話』『願心の目覚め』など多数。
◎森本太喜
テキスト最後の頁にある通り、「体験の荷物を背負って、過去に足を止めて」いる自分自身であることを自覚し、過去のつらい出来事がご縁となって今この法座に出させていただいていると思えば、自分だけの力ではない大きなはたらきによって今日まで生きてこられたことを実感できます。前回の三大綱目に関する質問にお答えいただく形で『曽我量深選集第四巻』所収『暴風駛雨』353頁の2行目「三大綱目は第一に初まりて、復第一に帰り、無窮に巡環して尽くる所がない」ということを教えていただき、「テキストを読み終えたから終了」ではなく、大事な教を何度聞いても忘れる自分は法座に出続けて聞き続けなければならないと改めて感じました。
◎勝田裕人
今回『自身を深信す』を読み終えてあらためて最初のページを辿ってみましたところ、P347 1行目より「仏法にはお念仏があって私共に廻回して下さる。これはつまり仏に本願があるからであります。」という一文から始まっておりました。仏法を通して今の私はどうなのだ、というようにベクトルを自分に向けてくださることから始まっているのではと思いました。そして最後のP407に「自力の限界の所に他力がはじまる」ともありました。自分はできる、自分ができると思っている自信は崩れるものだが、自分は出来ないという自分に気付きをいただくことで仏から私たち衆生をたすけようという仏のお名告りをいただいていることなのだと、改めて考えることができました。最初に今回の章の大きな答え(考えのもとの話し)をいただいていた、という気付きもいただきました。父の四十九日の日にこのような法座の場がありましたことで、仏となった父から何を願われていかかもう一度考える機会となりました。
◎船木あき子
3年にわたる講義を受けることができたことにまず感謝しています。長きに渡り志を同じくする皆と学べこと。先生のお話を直に聞くことができる機会をいただけましたことにも重ねて感謝いたします。「乗彼願力を深信する」という言葉には、まず信じてお任せするということ、そのことに感謝することが述べられていると感じます。信じることができる先輩、先生の伝えてくれたことを信じて身を投じる、それによって自分をささえてくれるもの、まもってくれるもの、導いてくれるものに気づくことができる。それによってはじめて他力の働きを身に感じることができるのだと思えました。
◎溝邊貴彦
無意識かつ当然に自己の経験(体験)や知識、そこに基づく判断基準を持ち、何の確証もないままこれが正しいと思い込んでいるが、実はとても脆く不安定であるということ。この自力無効に直面し(機の深信)、初めて他力救済があるということ(法の深信)、「乗彼願力を深信する」という親鸞聖人自信の深い感得を曽我先生を通して改めて教えていただきました。
◎山岡恵悟
『自身を深信す』を読み終えて「仏教は結論を作らない。念仏は結論ではない。」「理論や結論などで極楽に往くのではない。」という一文が強く印象に残っております。「乗彼願力を深信する」というお言葉を通して深く感じることは、お念仏、毎日の朝勤行などで日々、私たちは弥陀の本願を信じお任せする実践をしているのだと感じます。歎異抄第二条の「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」という親鸞聖人のお言葉の通りだと感じます。ただ阿弥陀さまを信じてお念仏を申す、実践することを続けて参ります。
◎田村和彦
「我は我なり」⇒「我は如来は我なり」⇒「我は如来にあらず」⇒「我は我なり」⇒「我は如来は我なり」⇒「我は如来にあらず」のようにずっとグルグル回っていく。どこが始まりか等はなく、終わりもない。ただし、同じところをグルグル回るのではなく、段々深まっていくと教えていただきました。これは往相回向、還相回向そのもののことでどちらが先か後か?どちらが重要かではなく、グルグル回って段々と深まっていくものと感じました。回向は念仏であり、このテキストの一番初めに1,本願成就の意義のところに仏法にはお念仏があって私共に回向して下さるとありました。実は今回の話は最初から最後までずっとお念仏の話をいただいているいとも感じました。三明先生から子供がおぎゃーと生まれた時にしっかりお金を稼げよって言う親はいないと教えていただいていました。今回、長男が就職したのですが先生の言葉をよく思い出します。仕事なのでお金を稼ぐことは大切ですがそれよりも仕事にやりがいを感じ、人生を楽しいで欲しいと思います。
◎長瀬珠栄
清沢満之と言う問いをいただいた曽我先生。先生(清沢満之先生)の教えの通りに受け取れているかと自分を省みる姿にハッとしました。曽我先生がなぜ探求されたのかが頭に残りました。
◎木原あゆみ
機の善悪は体験である。体験の荷物は重たい。背負っていると突進できない。「体験の荷物を背負って、過去に足を止めて、自分の体験のみを語る人にどうして本当の自信がありましょう。今日、自分が人間に身を受けたというところに無条件の自信がある。」最後の最後に胸にグッとせまるお言葉をいただいた。受け難い人の身を受け、聞き難い仏法を聞く縁をいただいている。人に生まれたことに対する感謝と喜びを根底に持って生きていきたい。
◎渡邉依歩
二種深信「機の深信」「法の深信」は二つに分かれているのではなく一つであると教えていただきました。「機の深信の中に法の深信を摂めてある」とはどういう事なのか…大きな問題を抱え解決の手立てが何も無くて絶望の淵にいる時、自己の無力さを知り、阿弥陀様の教えを信じることで救いの道がひらかれる。どちらか一つでは本当の深心に繋がらないのだと受け取めました。当たり前に不自由なく過ごせている事がどれだけ有難い事なのか何も問題がない時にはつい忘れがちで、思い出すのは困りごとがあった時ということを繰り返しています。わかっているはずの事も忘れてしまう私は聞法を繰り返し自己を振り返る時間が必要なんだと改めて感じました。いま、死に向き合っている方が住職からお渡しした「安堵」を不安な時に握りしめて南無阿弥陀仏と唱えていらっしゃいます。気持ちが落ち着くからいつも側に置いていると教えてくださいました。阿弥陀様のはたらきがどういう事かよくわかっていませんが、その方のお話しから教わっているような気がします。
◎大空
令和4年4月11日から令和7年4月24日までの3年間、「自身を深信す」をテーマに学ばせていただきました。それは「自己とは何ぞや」を問われる学びであったのであろうと思います。曽我先生の「自分の体験のみを語る人にどうして本当の自信がありましょう」「それを捨てたところに絶対の自信というものがある」「今日、自分が人間に身を受けたというところに無条件の自信がある」という仰せに、深く頷く学びとなりました。「人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す」のお聖教のお言葉をあらためてこの身にいただいたように思います。有難うございました。南無阿弥陀仏
◎船木あき子
清沢先生の「絶対他力の大道」は以前先生から「本に載っている内容は一部になっていて、抜かれてしまった言葉がある」と教えていただいていたが、今回清沢先生の日記から本当に書かれていた言葉を確認することをできた。お弟子さんが自分の先生を立派にみせたくてかもしれないが、自分のものさしで文章を削ることにとても驚いた。これでは清沢先生の人となりが間違って伝わってしまう。歎異抄にかかれている「先師の口伝に異なることをな嘆き」とあるのとは大違いだと思える。「自ら信じ人に教えて信ぜしむ」は自分の信じたことをそのまま伝えるということ。それは自分の解釈や理論を挟まずにということが大事である。そのうえで今回の清沢先生の日記の言葉はそのまま伝えればよかったことである。そのほうが本当の清沢先生に皆が近づけ、教えを大切にされた思いを受けとめることができると思えた。
◎森本太喜
真宗では「いよいよということになると、」(テキスト405頁の後8行目)阿弥陀仏は迎えに来るのではなく、いつも一緒にいてくれる、信ずる自分と仏と一緒になるということ、心強く感じる内容でした。前回・今回と触れていただいた曽我先生の法蔵菩薩論「我は我なり」「如来は我なり」「(されど)我は如来に非ず」の三綱目につきまして、よろしければ曽我先生がこのお考えに至った経緯や、関連する清沢先生の思想など、もう少し深くご教授いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。
◎長瀬珠栄
講義本に「自暴自棄出来ないところに阿弥陀の本願に乗托することが出来る。」とあり、乗托について教えていただきました。【聖典P520】託すではなく托なのが見慣れない漢字に意味を調べました。どちらもまかせると言う意味がありましたが、言には不平を言うと言う意味もあり、手には手の上に置くと言う意味がありました。先生が「死ぬも生きるもたくす」本当に煩悩具足と信知できることも本願に乗っかっていること。どうせがとれるといいと言うことは、信じる自分が仏になっていること、向かっていることを信じることなのかと思いました。いつでも仏様と一緒にいることに気が付かせていただきました。
◎田村和彦
前回の法座の中で「我は我なり、如来は我なり」「されど我は如来にあらず」という言葉を教えていただきました。さらに今回は私と如来との一体性と言うことも教えていただきました。仏様と言っても外にあるわけではない。仏様を信ずると言っても、仏様の本願成就ということも。我が身の上に本願は成就することということを表しているともあり。南無阿弥陀仏は自分自身で言っているようだが実は仏様が言っている。賜りたる信心とは仏様から信ずるように働きかけてくれている。自分において働いてくれている仏様。先週からのお話はすべては如来からの二種回向である往相回向と還相回向のお話だと思いました。
◎勝田裕人
お参りにきた人の後ろには仏さまが一緒に来てくれている、と思うこと、自分は仏さまと一緒に歩いていること、ということを教えていただきました。何かあったときに来る、死ぬときにだけ来る、のではなくいつも一緒であるということ。いつも一緒にいることこそ「はたらき」なのではないでしょうか。父を亡くし父のことを知る母や親戚、また兄からも父の人生を改めて聞かせていただきました。名前の通りに生きた父であったことを改めて思うことができました。そんな父は仏さまとなりすぐ私の後ろで一緒になって歩いている、と思うと父が私にかけてくれた願いや想いもいつでも振り向いて思いなおすことができると思いました。それでも間違えてしまう私、都合よく理解してしまおうとする私、でもあると思います。そのような自分でありますがそれもわかったうえで仏さまである父にありがとう、ごめんなさい、これからもお願いします、という気持ちを持ってまいりたいと思います。
◎大空
曽我先生は「自信」について「力む自信でない。本当に無一物」「無条件の自信」「我自身どうすることもならない、どうすることもならないからといって、自暴自棄しない。自暴自棄出来ないところに阿弥陀の本願に乗託することが出来る」との仰せは、まさに清沢先生の「人生の意義は不可解である」「私の信念には、私が一切のことに就いて私の自力の無効なることを信ずる」「我には何にも分らないとなった処で、一切の事を挙げて、悉く之を如来に信頼すると云ふことになったのが、私の信念の大要点」であるとの仰せとまったく符合するものであると思います。あらためて「信に死し 願に生きる」との曽我先生のお言葉を、我が身にひきかけて考えてみると、三明先生の「仏と一緒に歩いている」とのお言葉としていただくことが出来ました。有難うございます。南無阿弥陀仏
◎木原あゆみ
断絶があるから繋がっている。違いがあるから共通点がある。逃げる者がいるから追う者がいる。ネガティブなことはいけないことだと考えてしまうが、否定されることなくそれで良いのだと受け入れていただいたような気がした。人間の悩み苦しみと、本願力のように、反対の力が働いているからこそ、釣り合っている。問題があるから解決する働きがあり、課題があるから成長がある。自分の我執で、都合が良いところで止まっていたらこの世に起こることは何一つ見えないのだと思う。普通の自信は、何か条件をつけている。本当の自信は、何が無くなっても自暴自棄しないこと。無条件の一番悪いところにあっても失わなれないもの。今まだここに至れない自分であり、自信を失い悲しい気持ちになることもあるが、自分で条件をつける自信ではなく、本当の自信を持てる根拠を見つけていきたい。
◎溝邊貴彦
仏を外に置いて考えるということについて、私自身、頭で理解しようとする癖でもがいていたことがありました。京都専修学院で武宮先生とよくこの点について話をしたなと思い返しました。真宗の救いはわが身の上に仏の本願成就するということ。仏を自分の外に置いて客観的に理解しようとしても救いにはならないということに気づかせられたのはずいぶん後のことでした。本願の上に身の事実を自覚する、自暴自棄しない自信が真宗の救いであると改めて教えていただきました。
◎山岡恵悟
清澤満之先生の「自己とは何ぞや、これ人世の根本的問題なり。」のお言葉の根拠を大経(聖典14頁)「汝自ら当に知るべし」と確かめられました。私たちも今この瞬間に感じること、考えることが、如来よりたまわりたる信心である。といただくことが大変大事だと感じました。法然上人と親鸞聖人が、そして親鸞聖人と唯円が、断絶があるからこそ連続している。その連続が、曽我先生のお言葉と三明先生の御講義を通して、私の所まで届いているのだと感じました。人生で問題は必ず起こるからこそ活きているんだ。とは考えも及ばない、問題が無いように、都合の良いようにしたいと思って思い通りにならずに苦しむだけの私一人のために、如来が仏が私にはたらいて問題課題を与えてくださるんだと教えていただきました。如来が私になってはたらいてくださっている。そんな”私は何者なのか”。この問いが清澤先生の仰る通り、人生の根本的な課題としてついてくるのだと教えていただきました。
◎森本太喜
最近25歳になったことを機に自分自身を省みると、特に社会人になってからは年齢を明かすと驚かれたり、若いのに大変な経験をしていますねと声をかけていただく機会がしばしばありましたが、「いやいや、そんなことないですよ」と口では言っておきながら、相手に良く思われていることがわかって内心は嬉しいという状況が、まさに我執の謙遜だったと思います。周りの人からどう見えているのか気にしている時点で自分自身まだまだガキだな、とも思ってしまいます。テキスト402頁の6行目「往生の問題になると、各自各自の体験は無効、自力無効である」という曽我先生のお言葉は、私にとっての課題と感じました。特に私くらいの世代は無意識のうちに、SNSで地元の知り合いの近況を確認して批評しあったり、同年代の人と比べて経験値が上か下かで一喜一憂したりするのが当たり前の環境に身を置いていることを痛感させられます。年齢や個人の体験を他人と比較してどうこうということに翻弄されないよう、「自分自身はどうなのか」ということを聞法を通して突き詰めさせていただきたいです。また、信心相論(諍論)は聖典二版322頁の後から7行目(証巻)の「同一に念仏して別の道無きが故に。遠く通ずるに、夫れ四海の内、皆、兄弟とするなり。」にも繋がるのではないかと考えております。
◎田村和彦
「我は我なり」という言葉を聞くと、傲慢な人間を感じるのと同時に、我執の塊であり、凡夫そのものから一生抜け出せない自分であることを教えていただいた気がしました。「我は我なり、如来は我なり」という言葉を通じて、如来が我になって我を救いたもうということを学びました。この言葉だけを捉えると、さらなる傲慢さや自力を感じるかもしれませんが、実際には如来が鏡となり、どこまで行っても我執がなくならない自分を気づかせていただくことだと感じました。「されど我は如来にあらず」という言葉では、如来は自分ではないものの、常に見守り、救いの手を差し伸べている存在であることを感じましたが、それに気がつけない自分でもあると実感しました。実は、これは三つの異なることを言っているようであり、それぞれを順番に踏んでいくことが重要だとも感じました。
◎大空
右手と左手は違う。だからこそ、ぴったりと遇うことができる。それを逆縁というのだと聞かせていただきました。如来と凡夫は決定的に違う。ゆえに「若不生者、不取正覚」の誓いを立てて菩薩となり、如来と凡夫が絶対平等となって、我と共に救われる身となってくださった。逆縁こそが出遇いの事実となるのだと学びました。
◎船木あき子
「自ら人を信じせしむること、難中に転たまた難し。大悲弘し普く化するは、真に仏恩を報ずるに成る」この弘くという言葉によって「大悲が弘く普く化する」となり、「私が大悲を伝える」ではなくなる。これは漢文の「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」ではわからない点である。自信教人信は、自分が信じたことをつたえるのではなく、阿弥陀様の願いが伝えられるということである。自分の物差し、はからいで何かをしようとしてもそれは間違った方向にむかってしまう。人に伝えるということの難しい点である。それを見たまま、聞いたまま、そのままに伝えるのは「如来からたまわりたる信心である」ということを受けとめていなければ、相手に正しく伝わっていかないと思う。親鸞聖人の言葉を唯円さんが歎異抄に書き綴られたのは、親鸞聖人の普段の姿勢、そして如来からの願いをありがたいと感謝している思いが本当のものであったから伝わりそれを大切にしてさらにこの先にただしく伝えていかなければいかなければと思えたのだと思う。その人の本当のところがわかると教えていただきました。
◎長瀬珠栄
寝ても覚めても隔てなく南無阿弥陀仏をとのうべし と聞いたことがあり知っているつもりなのですが、今回の講義では心に残りました。余計なことをいろいろ考えて体調万全ではなくベストパフォーマンスを出せなければ本末転倒なので、お朝事から南無阿弥陀仏、家に帰ってから寝る前も南無阿弥陀仏と手を合わせていける落ち着いた生活をしていきたいと思いました。最近はお墓持ち様からいろいろと聞かれることも多く、知らないことよりも知っていることの多さに自分でも驚き有難いと感じます。本当に聞法の機会はこんな私にまで伝わっていて、計り知れないものが大半なのだと自分の中の固定観念が覆されます。大空僧侶が先代住職とのエピソードをお話しくださいましたが、自分は先代住職にはなれないんだと分かってから、自分と向き合い確固たる大空僧侶が誕生したように私は受け取って、私自身まだまだやならければいけないことがあると自分を問う時間をいただきました。
◎山岡恵悟
「法蔵菩薩は我なり」。心の底にはたらく法蔵菩薩という所から、今回の講座の受けとめが全て繋がっているようでした。「我が」という我執が消えない私ですが、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という親鸞聖人が仰せられたのに対し、唯円が、その通りにならない自分であることを「思い知らせんがためにて候ひけり」。そしてそう感じることもできない我執の私の有様を思い知らせてくださる「逆縁」御教えとして届いている。皆法蔵菩薩が心の底で「我」となってはたらいてくださる。「自信教人信」の受けとめが深まったように感じました。
◎黒澤浄光
本願力にあいぬれば、むなしくすぐるひとぞなき。ありがたい教えです。南無阿弥陀仏
◎溝邊貴彦
親鸞聖人が感得された「親鸞一人がためなりけり」は、あくまでも聖人自身の自信であり深い逆縁からいただかれたものである。逆縁教興を体現されたその姿勢や姿を通して自分自身に引き当てていくこと、これが善知識との出遭いであり、ここからしか自信教人信はうまれないのであろうと思います。深い逆縁を通してこそ、本当に出遭うということがあるのではないかと思います。
◎木原あゆみ
寝言は本音。コントロールできない。寝言こそ他力だと教えていただいた。我執もある。賛成も反対もある。正直だからこそ、教えになる。寝言で私は何を言っているだろうかと思う。自分の外側でおこることをすべて「ひとえに私一人のため」と受け取ることが他力のご信心であり、お任せできることの感謝が生まれる。「往生の問題になると各自各自の体験は無効」というお言葉を深く聞いていきたいと思う。
◎勝田裕人
「我は我なり、如来は我なり、されど我は如来にあらず」 我執は常にありつつも、如来が我となって我を救う、というお話しを聞かせていただきました。如来がわたしを救ってくれる、のではなく、如来が我となってわたしを救う、という「如来が我となって」という点について改めて深く考えることになりました。如来がわたしを救う、だと困ったときだけ外から救ってくれるというイメージにもなりがちですが、「如来が我となって」ということなので、煩悩具足の凡夫というこのような本当のわたしでも、わたしを救ってくれるという如来の願いを受けたわたしであるがゆえに、如来が我となって我を救う、ということなのだと考えました。
◎森本太喜
テキスト403頁の後から7行目以降、『歎異抄』後序の「我ら」という表現について触れられており、1月17日の船橋昭和浄苑・仏教人生講座における『一念多念文意』のお話を思い出しました。聖典二版667頁の2行目「「凡夫」は、すなわちわれらなり。」の「われら」は、一般的に“我々”という意味ではあるが、特に自分自身のことを指して“ら”の字を使うことがある、謙譲表現であると、万葉集に収録されている山上憶良の和歌にも触れてご解説いただき、自分自身はどうなのかということをどこまでも追求していく親鸞聖人の姿勢が垣間見える表現と感じました。同時に気になったのですが、これを“一人称単数”と捉えてもよろしいのでしょうか?もしくは、そのように解釈することも可能という程度に留めておいたほうがよろしいのでしょうか?また、今回座談の際に井上住職から、この表現は“我執の謙遜”ではなく“宿業共感の大地”の視点に立っていると重要なご指摘をいただきました。私もそれを受けて、自分自身が凡夫であるという受け止めは個人の内側にとどまらず、やがて社会との関わりの中で共通の業(例えば家族単位・組織単位・民族単位)を自覚していくことが、自信教人信につながるのではないか、と考えるようになりました。(2月11日追記)2月10日の量深学場 銀座講座にて、『曽我量深選集 第九巻』所収『正信念仏偈聴記』満講「弘経の大士・宗師等、」の解説にあたる部分を拝読しました。第九巻237頁の後から5~3行目に「「等」というのは、向内等としても向外等としても、両方の意味に通ずるものであると、こういうふうに申すことができる」と記載されておりますが、やはり“等”や“ら”という表現を巡っては両方の見解が成り立つのでしょうか。
◎船木あき子
自分の身の上に確かなものがあるかという問いに対して、時間の経過や気持ちの移り変わり、物は時がたてば傷んで壊れる。そう考えたとき、自分のアイデンティティや信仰は崩れないものではないかと思える。しかし、それもその思いの土台となるものが確かなものでないと、崩れてしまうことになる。自分自身と対話をして自分の身を知る事によって自分自身の身がどんなものかということを突き詰めてそのうえで信じるという道を進まないと成り立たないと思えた。親鸞聖人がおっしゃる「ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉も親鸞聖人が自分の身のことを突き詰めて考えられ、どのようなことをしても助からない身の上である事。その自分を唯一助けてくれるのが阿弥陀仏である。その阿弥陀様の慈悲に対しての感謝の言葉であると思えた。
◎大空
我執と我執では対話はできない。本当の自分というのは法蔵菩薩との対話である。法蔵菩薩は我執の私ではなく真実の私である。との先生のお言葉に心底うなづくことができました。南無阿弥陀仏は法蔵菩薩のやむにやまれぬ叫びであると、常に念仏を称える私の心もまた、我執の一部であることを知らされました。それでもなお、念仏を称えずにはおれない我が阿頼耶識に法蔵ましますと受け止めさせていただきました。南無阿弥陀仏。
◎溝邊貴彦
先生がおしゃっていた人間関係などでは癒されない孤独(絶対孤独)があるとの言葉にハッとさせられた思いです。年をとればとるほど人生を歩むうえでそれぞれ環境や境遇が違ってくるわけですが、違いはあってもそれぞれ絶対孤独からは離れられず、往生(救い)の歩みにおいては自力無効の上、それぞれ一文不知の身として朋に出遭っていくのだと思いました。
◎長瀬珠栄
阿弥陀仏は孤独の如来。この孤独とは理解されないこととありました。絶対の孤独とは自分自身と対話している状態なのだと伺い、聞法なのだと感じました。改めて自分と向き合う時間はなかなか取れないのですが、だからこそ孤独を恐れずに自分と対話して、自分を大事にしたいと思いました。
◎大島健一
二双四重 漸教と頓教という言葉を今回仏教法座で改めて教えて頂きました。我執、自分の主観や欲に固執する心にとらわれている状態では、本当の意味での対話は成立しないことを示して我執同士の対話は互いの主張のぶつかり合いになりやすく、相手の言葉を素直に受け入れることが難しいです。一方、法蔵菩薩とは我執にとらわれた小さな私ではなく、より大きな視点、より深い智慧を持つ存在でしょう。その宝蔵に出会っていくそれが曽我先生の、自身を深信すというメッセージにこめられていると今回の法座で改めて認識したところです。證大寺みっつの願いに基づいて、本当に我々は参詣者目線になってお仕事ができるているのか?自分目線じゃないのか?もう一度初心をもどり、宝蔵菩薩に出会い、お寺づくりに励む努力が大切と思いました。
◎山岡恵悟
”一文不知”とは、文字を書けない、学問がない、しかしながら往生の信心の前に皆平等。という所までは、知識として頭にありましたが、そんな言葉を超えて”一文不知”とは、知恵才覚があると勘違いしている我執の自分が壊れる”自力無効”であり本当の平等、絶対の自由。絶対の孤独、それが真実の私と教えていただきました。真実の私を教えてくださり摂め取って離さない阿弥陀仏の存在に、信ぜざるを得ないお念仏を申さずにはいられない私が日頃の私の姿です。清澤満之先生が『我が信念』の中で、一切を挙げて、如来を信じることに惹起された背景が”一文不知”を通して”私”に繋がりました。
◎木原あゆみ
「か」の一文字の在り方を親鸞聖人から教わった。「おこりそうろうか」は縁ある人々の意見に耳を傾ける姿勢である。自分を振り返って、足りないものだと思った。どうしても「自分が」となる自分。謙虚に意見と求め、皆の意見を聴くことではじめて皆で一緒にやることができる。何かを成し遂げるためには、「か」の姿勢が大切なことを教わりました。
◎勝田裕人
宝蔵菩薩の願いが本願なのではなく、自分の願いが本願であり、本願の成就は衆生各人の上にあることを聞かせていただきました。先日住職が終末医療の状態にいる父に対して「裕人さんはお寺でしっかりやってますよ」と大きな声で語りかけていただいた結果、今までになくパッと目を見開きじっと見つめていました。あの時の父は父の中に共にいる宝蔵菩薩を訪ね、父自身の願いをわたしたちに「聞いてくれ」と託してくれていたのだと思います。父の死を受容しないとならない状態ですがもっと自分自身と対話をして自分の中にいる父を訪ねていきたいと思います。そしてこのような状態である私でありますが、あのような場にいる皆さんとは御同行御同朋であると思いますので、そのような仲間がいる場にいさせていただいていることに改めて感謝申し上げます。
◎長瀬珠栄
聞法するたびに罪悪生死の凡夫の身であることに気づかされ、時に気分が下がることがあります。自暴自棄しないと講義本には書かれていましたが、聞法しないと気が付かないことに気づくことが大事なのだと思いました。知らせるはたらき、本願は私自信と切り離すことはできない。私の存在は他力本願になり他の人に知らせていくのか身をもって確かめていきたいです。
◎森本太喜
「自力の金剛心」を支えているのが「他力の金剛心」であり、ひとこと「金剛心」と言っても意味が異なるということを教えていただき、誠にありがとうございました。座談でも申しましたが、やはり典拠を必ず確認しなければ、重大な解釈違いを引き起こしてしまうことを改めて受け止めさせていただきました。また、テキスト400頁の7行目「我が身を除いて弥陀の本願何処にある。」のように強い表現をされている箇所がありますが、ここが「自信」という言葉の本質ではないかと感じました。引き続き曽我先生の言い回しにも注目して、要点を読み取っていきたいと思います。
◎小田桃香
浄土真宗において、「信じる」ということが大事な考えだと知ることができました。「自信教人信」とは「自ら信じ人を教えて信ぜしむ」という言葉のごとく、まずは自分自身をしっかり信じることが大事と教えてくれています。人間関係もコミュニケーションもよく鏡写しと言われますが、まずは自分自身としっかり向き合い、自身の考えや行動を正していかなければならないとこの言葉を聞いて襟を正されました。
◎山岡恵悟
自身を深信するということを、客観的に、評論的に考えている自分に気付かされました。「自分自身とは何者なのか」「自分自身を確立する」こと。は主語を阿弥陀仏において、弥陀の本願力に依ること以外に無いのだと教えていただきました。三明先生に教えていただいた「念仏申すトレーニング」という言葉が、罪悪生死の凡夫である所から抜け出す縁のない私には強く突き刺さるお言葉です。心が豊かな時も、そうでない時も念仏を申すトレーニングを続けて参ります。
◎船木あき子
金剛と言うは、すなわちこれ無漏(むろ)の体なり。P235初版本 無漏とはもれいでることがないこと、金剛は固いもの、変化しないもの 信心が固く、揺らぐことがないことを示す言葉である。人の思い計らいでこれを得ようとすれば、それは真実の信心ではないのではないか。阿弥陀様からの働きからいただく信心であることが大切なのであると感じる。今回教えていただいた「横超の金剛心」はまさに、願作仏心(浄土へ往生したいという人の心を阿弥陀様の本願によって功徳を回し向けてくださること)によって超えさせていただくことであると思う。
◎小林楓
他力は他人から与えられた力であり、つまりは自分が受け取った力のこと。何事も自分の判断であることを理解して日々を過ごしたい。自分自身としっかり向き合い、なにがあっても後悔しないように信じることが浄土真宗だと教わった。
◎猪坂希実江
今回は新人として初めて職員法座に参加させていただきました。「自力の金剛心」を支えているのは「他力の金剛心」であると教えていただきました。正直お恥ずかしいですが、「金剛心」という言葉の意味も最初はわかりませんでした。ただ先生が、お水を運ぶ子どもとそれを支える母親の具体例を出してくださり、イメージがわき、「他力の金剛心」は逆らわれても揺るがないほど大きいものであるということ学ばせていただきました。
◎木原あゆみ
信ずとは自分自身の問題を知ること。自信とは、自分自身が何者かを知ることだと教えていただいた。自信教人信は宗門運営の根幹の第一にある言葉であり、自分自身が何者かを知ることが聞法である。聞法なしに自分自身を知ることはできない。自分自身を知らずに生まれた意義を見つけることなどできはしない。従果向因という発想の転換を、常に自分の考える軸にしていきたいと思う。法蔵菩薩は私自身の奥底にいる。
◎目﨑明弘
どこまでも存在の問題と、救いの証明とが重なるのですね。二種深信は「自分はどうなのか」という問いをもつことで、「本願が私をおさめとって下さる」というところまでの体系がある。このことで、「自分はどうなのか」という先に「だから、私はだめな人間なんだ」と陥ることにならない。このことが、真宗の要なのではないかと受け止めました。
◎田村和彦
機の深信の話の中で迷惑をかけっぱなしの自分を信じることであり、そういう自分だと知らされることだと教えていただきました。それは自身を知ることであり、それは何できない自分であることに気が付くこと。法の深信は阿弥陀仏に本眼力であるとも教えていただきました。二種深信とは自信教人信であり、自ら信じて人に教えるになるに教えていただきました(自信の信は自分自身が何者かを知る 自分自身を深く信じる)
◎大空
「自信」とは「自分が」ではなく「自分を信ずる」「己の身を深信する」ということ、それは「乗」の一字が要となり、「乗」すなわち「南無」「帰命」「信」であることを知らされました。南無阿弥陀仏を賜って「無有出離之縁」である自身を深信する。それでいてどこまでも自暴自棄しない生き方が実現する。まさに「念仏者は無碍の一道なり」のお言葉として頼もしく力強く学ばせていただきました。
◎勝田裕人
自信教人信について改めて考える時間をいただきました。「人を教えて信ぜしむ」であって「人に教えて信ぜしむ」ではないということ。〇〇だから〇〇なんだよと他人に教えるのではなく、自らが生涯聞法を実践していくこと、わが身を深く信心することのはたらき(その姿)が、ほかの人に感化させ教えの姿、ともに歩み訪ねていく姿であると考えることができました。「信」という字はにんべんに言う、です。師が言っていること、そのはたらきを受けていくことがこの「信」の字の意味でもあるのではないかと考えました。年の最後にこのようなお話しと考える時間をいただきまして大変ありがたく存じます。
◎溝邊貴彦
機の深信(自己を深信する)は深く自分を信知するということは、法の深信なしでは成り立たないということ。法(弥陀の本願)に南無し帰命する自己においてはじめて揺るぎない信心が成り立つことを教えていただきました。南無し帰命することがなければ、ぐらぐらで不安定な存在でしかなく、自分を嫌って見捨てていくことしかできない。金剛心は他力によって成り立つということであろうと思います。
◎倉持圭
自信教人信⇒「自ら信じ人を教えて信ぜしむる」(416P l16)と言うことを改めて教えて頂きました。自分自身が何者であるかと言うことを知り(自身)、深く信じることができなければ教人信になりません。私に教えてくれたのはこの人だと訪ねていく、彼の願力に乗っていることを深信する大切さを学びました。
◎田村和彦
今回の講座では、自利、利他のお話を聞かせていただきました。利他ということを考える時に、広く他の為に尽すという風に考えて自分自身に執するのであるが、とテキストにありますがここの自分自身に執するの部分であなたのために尽くしているという自分自身に執着しているのであって
そんな私が素敵と思っているのであってそれはおためごかしであるとも教えていただきました。二種深心のお話も聞かせていただきました。機の深信、法の深信は表裏一体であり、機の深信に気がつくもの法の深信の働きであり、機の深信の後に法の深信が来るとも教えていただきました。座談では機の深信は他力の働きであるとの話にもなりました。
◎森本太喜
自利=自力とする決めつけから、機の深信も自力である、機の深信は不要であると考えてしまうことは、非常に危険なことであると理解いたしました。テキスト398頁8行目「他力金剛の信心」について、高僧和讃(聖典初版491頁)に「金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり」とあるように、金剛心は他力と思っていました。しかし、それも私自身の決めつけで、愚禿鈔(聖典初版431頁)に「自力金剛心」という表現があるように、金剛心には自力と他力の二種存在するのでしょうか?ご教示いただけますと幸いです。
◎長瀬珠栄
機の深信では機とは自己のことであると教えていただきました。自己とは何かと考えてみると、はっきりと自分の存在の意義を言葉にすることが難しく、だから生死=迷いから逃れられずに生きているのだとハッとしました。阿闍世の勉強会でも人間の苦悩について講義をいただいてきましたが、仏教が大事に受け継がれている理由に、人は迷い傷つき、それで自分の力では何もできないところにお念仏が発生し、他力によって生かされていることに気が付いていくからなのかと思いました。自分の悪点を自分で直そうと思うそばからできていない自分に気が付くことが多いので、それでもそう言った自分なのだと受け止め、愚かな自分に知らされながらも生きていかなければならない。だからこそ法の深信があるのかと思いました。罪悪生死の身である自己に阿弥陀仏の本願のはたらきによって気が付くことができた。聞法していると気が付くことができるので私も往生できるのかと、どこまでも自己に執着する考えが頭から離れない私です。
◎大空
「自信を深信する」というは「自利利他円満」の功徳が我が身に成就されて生きるあり方であると教えられました。歎異抄にいわれる「往生をばとぐるなりと信じて」「念仏もうさんとおもいたつ」「こころのおこるとき」すなわち「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」のおこころが「自信を深信する」ということではないかと思います。
◎船木あき子
念仏を申すということは、一切の考えもやることもすべて尽きたときに唯一の手だてが「念仏」ということ。だからこそ、念仏すれば助かるのではなく、念仏しなければ助からないということが納得でした。また、念仏は自分の自由意識ででるものではなく阿弥陀様のはからいであること。自然法爾である。大切な家族がに亡くなり「どうして」という思いを抱える方からの相談がある。死は順番ではないとわかっていても納得できない方は多いと思う。その時に「亡くなった方が残された家族を導いてくれる」ということ、そしてそのご縁でいまお寺に相談に来ることができていることを伝え、その方から念仏が自然と出てくるという現場に立ち会えた時、心から安堵する。それは、自分の力や本人の力でもなく、阿弥陀様のはからいの念仏だから、安堵する気持ちに繋がるのだと思う。
◎勝田裕人
自利と利他のお話しをいただきました。私たちは結果を見るとつい「私がいたからそういう風にできた」「私があなたのためにそうした」「わたしでなければそういうことができなかった」と常に私がしてあげた、という心持をもっていると思います。このような「私が」という自分を中心として考えていると常に周りの目、比較などを気にすることにもなり、どうしたら私が成功することができるのか、どうしたら私が利益を得ることができるのか、という自分さえという思いにもなっていると思います。利他とは人間の上にできないこと、と教えていただきました。私は回りの縁によって支えられ生かされているということです。結果というのは「私が」なにかをしたのではなく、支えられている私は少しの後押しをしたでけであなた(周り)のおかげで出来たことです、という感謝の気持ち、素直に受ける気持ちがあったからこそ出来た、ということが利他のお話しではないかと教えていただきました。そのうえで利他とは人の上にはできないこと、なので、それがお念仏という「はたらき」なのではと思いました。そしてこの自利と利他は切り離せないものでそれが三方に良しのお話しでもあると教えていただきました。自分だけ良いのではなく、それを通じて相手も満足のいくものであること、そしてそれは売り手と買い手の二者間だけの話しでなく、世間にも良いことである、ということです。教えていただいたことを信じる、教えていただいたことを伝えていく、というわたしのことではなく阿弥陀さまのはたらきであることを受け取めていくことでそれが広がっていく、自信教人信のお話しでもあると考えることができました。
◎山岡恵悟
「機の深信」について教えていただくとき何度聴いても最初は視点が自分にあるなと感じました。視点を自分に置いて「自力」や「他力」を考えれ
ば、自分自身の問題、どこまでも私が、私が。という心がある。その視点での”自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず”となってしまい、ここから逃れよう、抜け出そうとする強い我が生まれて来る。私たちは視点を自分においてしまう身であること、そこに執着することを知らしていただかないといけない存在なのだと思いました。しっかりと視点を仏さまにおいて「自利」「利他」という御言葉をいただくと、すべてを知りとおしてくださった阿弥陀仏の本願を本当に頼もしくいただいた親鸞聖人のお心から出た「即ち是れ自利の信心なり」という御言葉を深く受けとめ、どこまでも私という執着から離れられない自分が照らされて、またそんな自分を深く信じる。という身体の根本から来る安心があるのだと思います。それに気づかされる、ハッと知らされる時に、自然とお念仏が出るんだと思います。
◎木原あゆみ
深くうなずくことが信心であり、よく考えれば確かにそうだと受け止めるのは信心では無いと教えていただいた。深くうなずくとはどういうことか、たぶん自然に頭が下がることなのだと思う。頭で考え理屈で落とし込もうとする間は信心は得られない。それでも聞き続けることが必要だと思う。機の深信だけでも法の深信だけでも成り立たず、両方がそろって初めて成り立つ。自分自身の事実を承知した時、我執の謙遜が機の深信に変わるときとなり、それに気付くのは自分しかいない。自分が問題にならないと本願に行かない。自分の問題をあきらかにするために聞法を続けていきたい。
◎溝邊貴彦
機の深信とはどこまでもどこまでも深く知らされることであろうと思います。それは自利・自力ということになるのでしょうが、利他・他力である法の深信によるものであると教えていただきました。自利の信心は利他の信海によって成り立つ、自利他円満とは機の深信・法の深信どちらとも切っては切れない関係の上でしか成り立たないということを教えていただきました。木津 賢二 機は罪深い自己、法とは阿弥陀仏の本願ととらえました場合、自利利他を考えますと、親鸞聖人がなぜ、自利真実は自力、利他真実は他力と解釈され、わが身を深く信じたのか、機と法は表裏一体であると覗えますので、如来廻向や、本願力に自己を託す未来の報いを、凡夫は迷いから止めて乗り切れていないだけなのか、改めて考えていきたいと思いました。
配属されたお寺で研修後、一定の条件を満たした方は面談を経て別院の法務責任者をお任せしたいと考えています。東京開教原点の江東別院開設をスタートとし、都内各地で「みんなのお寺」の開設を通して社会に仏教公開の活動を広めていきましょう。
長年主婦をしていたので、別院住職の役職が自分にふさわしくないのではと思っていました。しかし、井上住職から「女性僧侶に活躍してほしい、子供をもつ視点を活かしてほしい」と仰っていただき、江東別院の立ち上げから別院の住職まで任せていただけることになりました。
別院では僧侶としての役割をしっかりと果たすため、お話をすることも大事ですが、お一人お一人のお話を丁寧に聞いていくことに力を入れています。生涯聞法の姿勢、よりよく生きるに寄り添う姿勢は證大寺にずっと貫かれているものです。その長い歴史の一部になれたらと思っています。
ここ江東別院は住職が元々住まわれていた土地に建てられました。大切な場所を任せられたというプレッシャーを感じないではないものの、自信をもって誠実に過ごしていくことを忘れずに日々を過ごしています。